2011年1月31日月曜日

エゾテリスム思想

アントワーヌ・フェーヴル『エゾテリスム思想』(白水社、文庫クセジュ)読了。音楽と神秘思想との関係は常に気になるところ。ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、アタナシウス・キルヒャー、色彩ピアノ(以上2点は大里さんも言及)、ファーブル・ドリヴェ、モーツァルト、ユスティヌス・ケルナー(シューマンの詩人)、サン=ティーヴ・ダルヴェードル、ジョゼファン・ペラダン(薔薇十字)、サティ、イェイツ(グレインジャー)、ユーゴー、ヴァーグナー、スクリャービン、そしてグルジェフ(これもハルトマンとの絡みで大里さんは言及していたはず)。彼らが歴史的・文脈的にきちんと整理されて記述されている。

2011年1月30日日曜日

ミュソーを見つけた

大里俊晴『マイナー音楽のために』の中に Michel Musseau についての言及があるはずだと書きましたが、見つけました。フェラーリとかドラム・ミュジカル・アンスタンタネと関係ある場所、などと思い込んでいましたが、これはぼくがもともと彼について持っていた知識がクロスオーバーしたようです。当該書物をお持ちの方は、370頁をお開けください。ジャック・リヴェット監督の音楽映画にジョルディ・サヴァルが音楽を書いたという話でした。その文脈で古楽アンサンブルのアンサンブル・クレマン・ジャヌカンがミュソーの「ドタバタ音楽劇」を演じた、というエピソードが挙げられているのでした。そこでドミニック・ヴィスが素晴らしかった、と。

東山魁夷

東山魁夷……、それと同じように平山郁夫。何でいつも彼らばかりが、メディアに取り上げられるのだろう?ふと、学生時代に芳賀徹先生が「東山魁夷なんて……」と軽侮の言葉を発しておられたのと、その後友人になった山田広昭氏のおばあさん(ええと、だから柄谷行人のお母さんにあたるのかな?)が東山魁夷の熱烈なファンでけっこうなコレクションをしておられたのを同時に思い出したのだった。

Weltanschauung

世界観 Weltanschauung の語をNHKまで誤用していたのにはがっかり(今朝の「日曜美術館」)。先日の卒論発表会でこの語の誤用について(「勝ち組」などという流行語を卒論に ― それもそのタイトルに! ― 使ったりもしている)学生たちに苦言を呈したばかりだった。この語は簡単に言えば「(今ここに現実にある)世界に対する見方」という意味で、「(どこにもない)空想世界」の意味ではない。まあしかし考えてみれば、NHKが日本語の標準では全くないし、あるいは同じ軽薄なマスコミという意味では、別にNHKを「保守の牙城」(そんなもの存在しない?)であるとして特別視する必要もないのかもしれない。

表紙

セヴラックCD表紙を本の方と同じにすれば、単純に両方をリンクさせて売れるんじゃないか、と思っていたが、そう言うと、コジマ録音もゆみさんも「CDは別物」という意見なので、しかし、みんながCDが(も)売れることを願っているのには違いないはずだから、まあ世の中いろいろな意見があるものだ、と感心しているのでした。

2011年1月29日土曜日

作曲の思想

小鍛冶邦隆『作曲の思想』読了。最後の対談を先に読めばよかった。その方がよくわかった気がする。よくもわるくも「作曲家の文章」、「アーティストの文章」という感じか……。

Un Film sur Mompou

YouTube というのはすごいものだ!モンポウについてのフランスのテレビ番組を発見してしまった。Jacques Trébauta という人が1970年に RTF のためにとったもの(L'Homme et sa musique)。すごい!素晴らしい発見がたくさん!彼が中で言っていた「私は作曲家ではない」という言葉が印象に残った。では、何なのか?それは、見てのお楽しみ。

2011年1月28日金曜日

ねじの回転

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』再読。コナン・ドイルと違って、同じ幽霊話でも、やはり「文学作品」であるな。ふーむ。

Michel Musseau

今日研究室のその時に貰ったCDを確認したら、Michel Musseau でした。だからミュゾーというのはぼくの勘違いです。つまりは、大里さんが見たというのはこの人ですね。確かにこの人めちゃくちゃ面白いです。奥さん(?)が Claire Jequier という中世音楽研究家です。La folie, un péché médiéval という本を貰った。

2011年1月26日水曜日

大里さんが

『マイナー音楽のために』の中で大里さんが、ミシェル・ミュゾーに言及していて、確かこの人とはゆみさんのところで会った人だ、と気付いた。しかし、本当にそうか?ドラム・ミュジカル・アンスタンタネと一緒に何かやって……という文脈だったと思うが(フェラーリとも関係があって)、今ふと思い返して『マイナー音楽……』をひっくり返してみたが、見つからない。大里さんは「ミュソー」と書いていたので、あるいは別人か?

凍えたカモメ

ズームしました。

堂島川

想像の共同体

ベネディクト・アンダーソン『定本・想像の共同体』読了。ヨーロッパのナショナリズムを強烈に相対化してくれる、刺激的な書物である。音楽についても少々触れらている。これからものする紀要原稿に生きて来るか………?

大里俊晴

大里俊晴『マイナー音楽のために』ほぼ読了(というのは、マンガについてとジャズ評論については、全く興味がないので読まなかったからだが)。中に二カ所だけ私自身への遠回しの言及があったので、何となく嬉しくなりました。どちらも翻訳に関してのもので、一つはデリダのオーネット・コールマンについての文章、もう一つはリュック・フェラーリについての本。このそれぞれが「適切な訳者を得て翻訳される」というように書かれているのでした。Et c'est moi...

Lucie Rie

中之島の大阪市立東洋陶磁美術館にルーシー・リー展を見に行く。彼女の小さい作品にはかなり惹かれるが、その他はまあまあという感じか。ハンス・コパーの作品も興味深いが今回は展示はなし。彼らの書簡が展示されていたが、彼ら二人とも母国語はドイツ語のはずなのになぜ英語で手紙を書き合っていたのだろう?とても不思議。ルーシーの従兄弟からの手紙というものもあったが、これも英語だった。なぜ?
その後、堂島川べりを歩いていると「凍えたカモメ」に出会った。写真は後ほど。
そして、北新地を通って、タワーレコードで、いろいろ物色。実はササヤ書店やらその下の世界堂(だっけ?)にも行ったがまだ閉まっていた。この辺は11時開店というのが多いようだ。さて、収穫はと言えば、リゲティ作品集、シュッツ作品集(どちらも4、5枚組で2000円台!)、そしてブランカフォルトのピアノ作品集。

2011年1月24日月曜日

日は昇る?沈む?

ちょっと前のことだが、大学の授業でドビュッシーの『ムッシュー・クロッシュ』を使ったことがあって、もちろん学生たちはフランス語などは読めないので、日本語訳を使ったのだが、プリントしたのがたまたま(大判だったので)杉本秀太郎訳で、授業直前にそれが見つからないものだから岩波文庫の平島正郎訳を持って行ったのだった。杉本訳は誤訳が多いので、悪口を言いながら、平島訳と対照させて行ったのだったが、当時の音楽をけなしまくった上に結局、自然には音楽は敵わないという文脈で、太陽の話が出てくる。これは有名な箇所だが、ぼくは「一曲の交響曲は沈む夕陽に如かない」というように覚えていて、杉本訳が「昇る太陽」と訳し、平島訳が「沈む太陽」と訳しているので、またまたこれはいい加減な杉本訳が誤訳をしたなと思ったのだが、実は原文を調べてみると、逆なのだ。太陽は昇っている!しかし、あの用意周到な平島先生が誤訳をするとは思えないので、これは「故意」(?)の間違いなのではないか、と思うのである。しかしでは、ぼくの思い込みの「沈む夕陽」とドビュッシーはどこから来たのだろう?それによって、いろいろ考えられる。

2011年1月23日日曜日

公園めぐり

午後にはまず芦屋市と西宮市との境にある「高塚公園」へ。ここは蝋梅の名所ということらしいので行ってみたのだが、ちょぼちょぼとしかない。その上、北側の広大な荒れ地(池の跡らしいものまである)との間にフェンスがあるのだが、その東の端の方は単なるトタン板があるだけの上に、それが壊れている。なんだか荒涼とした感じ。その西側の上の方には分譲住宅建築計画があるらしく、その立て札の地図を見ていると、その北側の荒れ地にはもともとは橋やら流れやら池やらがあったらしい。以前には広大な庭付きのお屋敷があったと見える。その後は、その道を辿って降りて来て仲池へ。

こんな感じ。やはり、少々寂しげである。鴨と鯉しか動くものとてない。その後はまた下って行って、岩園公園で子供たちを遊ばせる。すこしずつ季節は動いていて雪柳の花が一輪二輪綻びかけている。

芦屋美術館

正確には芦屋市立美術博物館という。「芦屋の鉄道 ― JR線の巻」と「小出楢重 ― 1920年代大阪・神戸・芦屋」という展示をやっているので見に行った。昭和初年に芦屋近辺を走る「特急つばめ」の写真がとてもかっこいい。モダニズムを地で行っているわけだ。また国道二号線上に阪神国道電鉄という路面電車が走っていたことも初めて知った。すごいね、当時はだから阪急・国鉄・路面電車・阪神という4本の電車が阪神間を平行して横に走っていたことになる。

2011年1月22日土曜日

モンポウ

大里さんがモンポウについて書いている文章を読んで、これがぼくがフランスから帰った後の体験だと気付いた。そしてそこには「それまで名前も知らなかった」と書かれてあるので、しかし、ぼくたちの間の会話では必ずモンポウの名前は出ていたはずだから、これは彼一流の韜晦で、ただもしも本当に彼がそれまでにその名前を知らなかったとしたら、これはもしかしたら「唯一」ぼくが大里さんに教えることのできた音楽かも知れない、と思った。そう考えて、ではぼく自身がいつにモンポウの名前を知ったのか記憶を辿ると、一番古い記憶にテレサ・ベルガンサの歌う歌曲《夢の戦い》からの二曲がある。このCDをいつ手に入れたか?そう、これはLPではなく、最初からCDだった。すると恐らくぼくが、パリである日本人メゾソプラノに熱を上げていた頃が一番可能性がある。その頃にホセ・カレーラスのスペイン歌曲集を買った覚えははっきりあるからだ。だからまさしく大里さんとよく会っていた時期にも当たる。ぼくがモンポウのピアノ曲についてよく知るようになるのは、東大の助手時代にサラベール社から出たばかりの『モンポウ、ピアノ曲集』を公費で駒場の図書館に入れた頃からである。だからその頃には、大里さんとはもう会わなくなっていた。つまり、ぼくからの大里さんへのモンポウ情報はまず歌曲であり、彼はそのことをすぐ忘れてしまったのかもしれない。でも名前だけはかすかに覚えていて、ピアノ曲自作自演の古LPを買ったのではないか?

ロロスリ

『ロロスリ新聞』が送られて来た。やはり面白い。ちなみに「ロロスリ」とは「ロックンロールストーブリーグ」の略です。ロック漫筆家、安田謙一と漫画雑誌に書かない漫画家、辻井タカヒロの二人による名著が『ロロスリ』です。しかし、これも村上君に教えてもらわなければ、永久に知らないでしまったものだろう、と思うと「イチゴイチエ」と言うか不思議な気がします。

2011年1月21日金曜日

マイナー音楽のために

細川周平さんから大里俊晴『マイナー音楽のために』を送って頂く。これほど分厚い書籍だとは知らなかった。懐かしい名前がいっぱい目次に出ている。しかしまあ、「こだわりの人」だったよなあ……。

いづ作

Before & After(何のでしょう?)

2011年1月20日木曜日

小鍛冶さんから

思いがけず、小鍛冶邦隆さんから『作曲の思想』を送って頂く。お礼のメールを(木村さんからアドレスをきいて)送ったら、さっそくにまたまた丁寧なお返事を頂いた。恐縮至極である。

iPad

楽譜用の大型 iPad の夢を見た。これがあれば、譜めくりが超簡単である。誰か作ってくれないかな。

2011年1月19日水曜日

不良債権

『思想』に載せた「シューマンの晩年様式」を「不良債権」だと貶めている者がいるらしい。ようは、引用が孫引きである(ダヴェリオがドイツ語文献を参照しているところを引用している)ということで非難しているのだ。比喩に対して比喩で返させて頂けば、ぼくの書いたものは「換金」できるような「債権」などではない、そんなお手軽に稼ぐことなどできないのだ、と言おう。調べたいのなら、十分な手がかりは註で与えているのだから御自分で調べなさい、おんぶにだっこはだめよ、ということ。さらに言わせてもらえば、もしもぼくが「不誠実な」者であったとしたら、それがいわゆる孫引きであることなど隠すことは朝飯前の技であったはずだ。ぼくは英語や仏語なら日に100頁だって軽く読むことはできるが、独語はそうはいかない。いきおい英語文献に頼ることになる。だからいつも言っているのだ、ドイツ語が日に100頁読める人間こそが、例えばシューマンなりなんなりについて、ぼくがやっているようなこと(いやいやもちろんそれ以上のこと)をきちんとやるべきなのだと。それを「英語至上主義」などと解釈するのはものごとの本質を見誤ることおびただしい。(我を学内随一の「英語主義反対者」と知っての狼藉か!w)

Ricardo Reis

Je veux ignoré, et tranquille
D'être ignoré, et tout à moi
D'être tranquille, emplir mes jours
De ne plus rien exiger d'eux.

Ceux que la richesse caresse,
Bientôt l'or irrite leur peau.
Ceux sur qui la renommée souffle,
Leur vie se voile de buées.

Ceux sur qui, soleil, le bonheur
Brille, sur eux viendra la nuit.
Mais pour celui qui rien n'espère,
Tout ce qui vient est un bienfait.

Zwielicht

Manches geht in Nacht verloren - hüte dich, sei wach und munter !
(Eichendorff)

2011年1月18日火曜日

Verrufene Stelle

Die Blumen, so hoch sie wachsen,
Sind blass hier, wie der Tod;
Nur eine in der Mitte
Steht da im dunkeln Roth.

Die hat es nicht von der Sonne:
Nie traf sie deren Gluth;
Sie hat es von der Erde,
Und die trank Menschenblut.

Ennemis

Des ennemis partout autour de toi.  Méfie-toi !  Sois vigilant !

2011年1月17日月曜日

コナン・ドイル

コナン・ドイルの恐怖小説集を読む。昔に読んだものの再編集のよう。彼が心霊術に関心を持っていたのは知っていたが、これほどその séance について克明に書いたものがあるとは知らなかった。そして、彼の父と祖父が妖精専門の画家だったことも。

民族音楽

「フランス近代音楽も民族音楽だった」という本も書けそうだな(笑)。そんなことを言い出すと「ドイツ古典派音楽も民族音楽だった」し、「バロック音楽も民族音楽だった」となるか?

2011年1月16日日曜日

ヒュペーリオン

『ヒュペーリオン』を読んでいたら、ディオティマが「高音と低音の間の黄金の中間で歌う」と書かれているのに出くわした。まさしく、シューマンの《暁の歌》Gesänge der Frühe はディオティマがテーマとなっていて、特にその第一曲は高くもなく低くもない中音域の音楽である。

天使の耳飾り

エンジェルス・イヤリングがまた咲き出しました。
日本名は「フクシア」「ホクシャ」のようですな。いやしかし、これももともとは外来語か。

2011年1月15日土曜日

アメリカ実験音楽

柿沼敏江『アメリカ実験音楽は民族音楽だった』読了。パーシー・グレインジャーについて知りたくて、読んだのだったが、他の人たちについてもいろいろと教えられるところが多く、面白かった。しかし「ヴァーナキュラー」という用語は日本語になっているのだろうか。また「民族音楽」というもののはっきりした定義がないので、「?」という感じがしなくもない。こういう幾人かの人々の短い評伝を積み重ねる本は、『近世畸人伝』をはじめ、とりあえずは大変に面白く読めるし、それほど深みはないにしても、個人的には結構好きです。

ヨーロッパ

ヨーロッパ諸国を三つに分類する仕方をどこで見たのか忘れてしまった。今やっと少し思い出したところによると、恐らくそれは伊東さんの書いたもののどこか、なのだが……。(最初はダールハウスだと思い込んでいたが、これは間違いだろう。)

細川周平さん

細川周平さんから『狂気の西洋音楽史』読後感想手紙で到着(前便は「読前感想」[?]であった)。ただの「現代音楽専門家」かと思ったら、そうではなくてきちんと「西洋音楽史」全体を見渡せている、と大変に誉めてもらっているので、面映いばかりである。しかし、ラカンの部分はいただけない、と。確かにこれはなかば「宿題」のようにして入れた感もあり。これから読む人には飛ばしてもらってもいいような気もする。

2011年1月14日金曜日

Blanche Selva

Jean-Marc Warszawski (dir.), Blanche Selva : Naissance d'un piano moderne, Symétrie, 2010 を読了。あまり新しい発見はなかったけれども、やはり彼女はどうしてもスペイン(カタロニア)ではなく、フランスのピアニストであるという印象。特に彼女と専属譜めくり人(?)ルネ・ド・カステラとの交友が興味深い。ルーセルも。後二者についてこれから調べてみよう。

2011年1月13日木曜日

砂場

そば屋のことではない(笑)。東京・パリ・京都・芦屋の児童公園砂場の「プロフェッショナル」(?)としての発見。芦屋の砂は海から来ている!子供たちがしょっちゅう貝殻を拾って来るのである。

六甲山

駅まで山幹歩いて途中ずっと六甲山を見ている(東京もんのぼくには、こうやって普通に歩いていて山が見えるなんていつでもめずらしい)。しかし六甲山とはどの山なのか、とふと思う。この目の前の山峰は東の端だと思うが、最高峰は別のはずだ。このような山の名付けかたは欧米風な気がする。山塊の名はあるが、〜山、というようなものはない。(まれにモンブランとかピックデュミディなどあるが。)これは山岳信仰と関係があるか?

2011年1月12日水曜日

電子書籍

テレビで電子書籍の報道をしていた。相変わらず新しいものについてのバラ色報道だが、ぼくはこれは使えない。なぜなら、本の内容をその書かれている場所、ページ内の配置とか、全体の中の位置で覚えているからだ。だいいち、本の著者やタイトルを忘れていても、その装丁や紙質、厚さで覚えている。(本棚の中での位置というのもあるな。)そして、さらには、本へのフェティッシュ的愛がある。

2011年1月10日月曜日

佐々木敦氏

佐々木敦氏がその評論「批評時空間、第二回・歴史について」『新潮』2月号において、拙著を取り上げてくださいました。今回もまた大里さんの本と一緒です。素晴らしい。

2011年1月9日日曜日

西宮

西宮えびす神社「十日夷」に行く。国道二号線のバス利用(山打出〜西宮夷)したが、神社近辺は物凄い大渋滞。一つ前の夙川で降りて歩く。しかし、近付くにつれこれまた物凄い人出で全く前に進まない。子供たちに綿飴やらポン菓子やら飴玉などを買って、単に祭りの雰囲気を味わった、ということでUターン。

パセリ

やはり、バジルは枯れてしまったのだが、その足下に植えておいたパセリが、ものすごく元気を盛り返している。パセリは気温が低い方が生育がよいようだ。
右側の方に枯れた幹が見えているのが、バジルである。ちなみに、パセリはフランス語では le persil である。最後のエルは発音しない。
ところで、昨晩はゆみさんと鈴木さん、海老坂先生を招いて、ふぐディナーをしたのであった。

ルーシー・リー

ルーシー・リーの展覧会が大阪市立東洋陶磁美術館でやっているらしい。この美術館は昨年のモニックさんの滞在時に彼女が行って感銘を受けたと言っていたものだ。

2011年1月8日土曜日

パリ市の紋章

これです。「揺げども、沈まず」と訳すのかな。

2011年1月5日水曜日

contre

Contre vents et marées というと、いつもパリ市の blason を思い出す。ええっと、Fluctuat nec なんだっけ?そうそう、mergitur だ。しかし、何だ? Mergitur って?なるほど、submerger ということか?

馬の耳に……

子供たちが保育園でことざわを習ってくるが、ときどきおかしいことになっている。「馬の耳に乾物」など。もうひとつ、「おおたこにおそわれ」(海洋冒険活劇?)。

2011年1月4日火曜日

Ce qu'il faut

Il faut faire ce qu'il faut, c'est tout.  Si fort que soit le vent qui souffle contre moi, je continuerai à marcher.  Jalousie, ressentiment, malentendu, orgueil.... innombrables maux m'entourent...  Faire semblant de les ignorer, "feindre" comme dit Pessoa, ou bien comme si de rien était (est-ce que la philosophie d'Ogai Mori, qui a d'origine "Die Philosophie des Als Ob" de Hans Vaihinger)...

さまよえるオランダ人

ヴァーグナーのオペラ《さまよえるオランダ人》は「偽装された」交響曲であり、そのモデルはベートーヴェンの《第九交響曲》である、というレポートを大学院時代に高辻知義先生のゼミに出したのだが、全く無視されてしまった。未だにそれは有効だと思っているので、そして未だに誰もこのことを指摘していない(ぼくは専門でないからこれは100%ではない)と思うので、ここで忘れないうちに書いておく。

C dur

久しぶりにモンポウの Musica callada を聴いている。最後の曲はハ長調 C dur なのだが、いつも思うのだけれど、フォーレの Barcarolle も最後のものがハ長調、プロコフィエフのピアノソナタも最後のはハ長調。もちろん、ベートーヴェンの最後のピアノソナタ32番も第一楽章はハ短調だが、次の楽章(つまり最後)はハ長調。作曲家たちはその晩年に「単純」なものに戻って行く?

2011年1月2日日曜日

初詣

打出天神に初詣。いつもは全く人がいない境内なのだが、参拝のための行列まで出来ていた。

2011年1月1日土曜日

うさぎ

謹賀新年です。卯年の元旦にこんなところにもウサギが!